菖蒲占(サンプル)


 その日の空には雲が重く垂れ込め、月明かりもなく、迚も御用改めが成功するとは考えられなかった。
 料亭や旅籠を急襲するなら兎も角、今夜は内海に面した埋め立て地に建つ倉庫が現場である。
 僅かな照明すら使うことができない俺たちは、圧倒的不利な状況だった。
 然れども先陣を切るのが一番隊。
 更にその先頭を往くのが、俺。
 でも、其処にあったのは「しまった」「しくじった」「やっちまったなァ」の三拍子だった。
 想定以上に待ち構える敵の数が多い。
 しかも手練れと銃火器を揃えていた。
 左肩で肉の裂ける音がしたかと思えば、同じく左の脇腹に鋭い熱と痛みを感じる。
 嗚呼、そう言えば以前、終兄さんから、偶に左側が甘くなると指摘されたコトがあった。
 「総悟!」
 怒号にも似た悲鳴めいた声を聞き、其方を向こうとしながらも、先ずは俺を斬りつけた野郎を叩っ斬る。
 暗闇の中、黒い隊服に黒髪のその人は、何処にいるのかよく見えなかった。
 けれど、俺が間違う訳がない。
 なんで?
 どうして、此処にいるの?
 アンタは後方で指揮を執ってる筈でしょう?
 問い掛ける声の代わりに、口からどぷりと血液が零れ落ちる。
 意識が途絶える寸前、土方さんが何度も俺の名を呼びながら、抱きかかえてくれたのだけは、解った。
 その後は怒り狂った一番隊が暴走したり、俺が病院に運ばれたりで天手古舞だったと聞く。
 何だかんだで御用改めそのものは、収拾したのだからよいのだろうが。
 本日、五月五日より、一週間も前の話だ。
 漸く塞がってきた傷を確かめるように肩を動かしていると、荷物を纏め終えた山崎が声を掛けてきた。
 「沖田さん、九時過ぎには手続きして屯所に戻れますからね」
 「おう。さんきゅ」
 連休中、しかも朝の退院となったのは、俺が一刻も早く病院とおさらばしたかったからだ。
 病院は好きではない。
 土方さんは時折大怪我をして、入院する羽目になっているけれど、俺はそんなに世話になることもなかった。
 今回だって屯所で松本先生に診てもらうと粘ったのに、左脇腹の傷が銃によるものだったため、仕方なく入院したのだ。
 「なァ、ザキ」
 「はい?」
 「俺、すぐ復帰できンの?」
 「予定では療養になってるんで……暫く掛かるかもしれないです」
 自分の体のことは自分が一番解っているから、この答えには納得もいく。
 まだ縫った傷が攣れるし、体を捻ったりするのは難しい。
 解っていても八つ当たりをせずにはいられなかった。
 「軟禁されンのかァ」
 「そんな言い方しないでくださいよ」
 荷物を両手に抱えた山崎が、困ったような顔をして、俺を病室から外へと促す。
 山崎は隊士たちの入退院の手続きに慣れているのだろう。
 さらさらと書類へ必要事項を記入し、所定のカウンターに提出すると、駐車場まで迷わず歩いていくのだから感心する。
 俺がしたのは移動して、停めてあったパトカーの助手席に乗り込み、山崎が荷物を積んで運転席に来るのを待つことだけだ。
 屯所に戻ると、非番の隊士たちまでが起き出しており、至る所で迎えてくれた。
 広間の奥では近藤さんがそわそわしながら待っていて、俺を見るなり傷のことも忘れてしまったかのように抱き締めてくる。
 「お帰り、総悟ォ!」
 「ただいまでさァ。心配掛けちまってすいやせん」
 「傷は? 大丈夫なのか?」
 自分で言って思い出したのか、近藤さんが腕の力を弱めて俺の肩や腹の辺りを見た。
 「へィ。もうすっかり――…」
 「嘘ですよ、局長。沖田さんは要療養です」
 笑顔と共にお利口な返事をしようとしたのに、山崎が素早く訂正を入れる。
 唇を尖らせた俺の頭へ、軽い衝撃が走った。
 辺りに漂う煙草の香りで、犯人が誰だかすぐに解る。
 振り返ると丸めた書類を片手に、銜え煙草の土方さんが此方を見ていた。
 「何すンでィ」
 「……報告書、提出期限は三日後だからな」
 「俺ァ、療養の必要な身ですぜ?」
 押し付けられた書類をつい受け取ってしまいながらも、そう言った俺を、土方さんが鼻先で笑う。
 「どうせ暇だろ」
 「そんなの、アンタが決めるコトじゃねェだろィ」
 「まあまあ、二人とも! 沖田さんは一旦部屋で休みましょう! ね?」
 山崎が慌てて割って入って宥めてきた。
 追撃とばかりに近藤さんも口を開く。
 「療養が優先なんだから、合間合間にやればいいさ」
 近藤さんにそこまで言われてしまうと、どうしようもない。
 俺は手の中の白紙の報告書に視線を落とした。
 助け舟を出した山崎と近藤さん、そして結果として助けられている俺を見比べて、土方さんが溜息を吐き出す。
 煙草のフィルターを噛みながら、後ろ頭をがしがしと掻く姿に違和感を覚えた。
 あれ?
 この人は、もしかして。
 いや、もしかしなくても、苛々していないか?
 いつも通りに振舞ってみせてはいるが、小さな仕草や言葉の端々に、苛立ちが見え隠れしているように思える。
 多分俺と二人きりなら、もっとあからさまに不機嫌オーラを出している筈だ。
 でも、俺は今屯所に帰ってきたばかりで、土方さんに悪戯などしていない。
 土方さんの不機嫌の理由が解らなかった。
 「ほら、沖田さん。荷物部屋に運んじゃいますから、着替えて横になってください」
 「え? あ、ああ」
 「ゆっくり休むんだぞ、総悟」
 山崎と近藤さんがそんな風に言うものだから、土方さんには訊けず仕舞いである。
 広間を出る時に、土方さんをちらりと見たら、横を向いて、ただ紫煙を燻らせていた。

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