我花惑迷寧事

 「一回だけ、な?」
 そう言った瞬間、平手打ちを喰らう。
 「なんだよ、できないのか?」
 「そうは言ってねェ!」
 ふるふると怒りに震えている目の前の亜麻色は、それでも部屋から出ていくことはなかった。
 何せ、朝の稽古で一本取ったのは俺なのだ。
 コイツの性格上、ひとつ負ければもうひとつは負けられない。
 それが、例え、意地の張り合いであっても。
 「できるンなら、イイじゃねぇか」
 「……」
 「それともやっぱりできねぇか」
 唇を噛み締める総悟は、先程から畳の上に視線を遣ったまま、俺の方を見ようとはしない。
 大きな赤い瞳に映っているのは、一本のボトル。
 「マヨなんざ、どう使うってンですかィ…」
 か細い声が紡いだ言葉を肯定と受け取った俺は嬉しさのあまり、総悟をぎゅうっと抱き締めた。
 じたばたと暴れる体は、暫く抱いていると大人しくなり、代わりに頼りない両手が俺の着流しを引っ張る。
 総悟の単の帯をいつになく早急に解いて白い肌を露わにさせ、マヨネーズのキャップを緩めた。
 「ひじ、かたさ…冷てェ…」
 ちょんちょん、と、飾りつける度に震える体をそっと横たえる。
 まさに御馳走となった総悟を、美味しく頂こうと、覆い被さった。

 だが、そこで。

 「あ?」
 瞬きを繰り返した俺の口から出てきたのは、なんとも間の抜けた声だった。
 近くでは竹刀がぶつかり合う、パァンという乾いた音が鳴り響いている。
 「ちっ。生き返りやがったか土方」
 「総悟? あれ? お前マヨは?」
 「はぁ!?」
 俺を上から覗き込んでいる総悟は、道着をしっかりと着ていて、マヨの片鱗どころか色気もへったくれもない。
 つーか。
 まさか。
 「夢かよ! くっそ!」
 「俺そんなに強く打ち込んだ覚えねェんですが…大丈夫ですかィ…?」
 「煩ぇ! ンな可哀想なモン見るみたいな目ぇすンな!」
 そうだよコイツがあんなコトさせる訳ねぇだろ夢だよ解ってたよ!
 てか、夢なら最後までヤらせろよ!
 いや朝稽古の途中で夢精する訳にはいかないか。
 そもそも負けて道場で昏倒すること自体どうかと思うが、でもなんだその貴重じゃねぇかマヨとか!
 頭を抱える俺を見ていた総悟が、何かを考えるような仕草を見せた。
 「アンタ、夢見てたの?」
 「あ、ああ」
 その内容を口にしたら、もう一度意識不明にさせられるのだろうが。
 「しあわせでした?」
 「まあ、そうだな」
 「どんな夢ですかィ?」
 「…忘れた」
 「言いたくねーってコトですね…」
 今の今まで面白がっていた声音が急に温度を失った。
 総悟は黙ったまま竹刀を肩に担いで道場を出て行ってしまう。
 それを見送った後、俺は、あの凄まじい夢を振り払うために竹刀を振り続けた。

 湯を浴びて食堂へ行くと、かれいの煮付けがあったので、懐からいつものを取り出した。
 しかし赤いキャップを開ける前に、夢の中でコレを開けた時のコトが過ぎってしまう。
 暫し沈黙して、マヨネーズのボトルを見ていると、ひょいと横から攫われた。
 白い指がキャップを外して、にゅるっとかれいの上にマヨネーズを盛りつける。
 「何してンだ…?」
 「こんな感じで、イイですかィ?」
 マヨネーズを片手に首をかくんと傾けて俺を見る総悟は、俺がもたもたしていたのをどこか楽しんでいるように見えた。
 が。
 夢でマヨを塗った時に、お前が漏らした吐息までを、思い出してしまった俺はどうすれば!
 「食わねェの?」
 じっと見つめられて、自然と体が後ろに引けた。
 「い、いや。それは…食う、が」
 「食いたくねーってコトですね…」
 かたん、と、総悟が席を立つ。
 「食うって」
 総悟の後ろ姿に声を掛けながら、解した身を口に放り込んだ。

 次に総悟を見た時には、縁側の死角に入って、サボりの準備態勢を整えている最中だった。
 アイマスクで目元を覆われてしまっては、コイツがどんな貌をしているのかは解らない。
 五月の爽やかな風が、亜麻色の髪を揺らす。
 微かに開いている唇を見て、触れたくなったのは、仕方ないだろう。
 そっと指でなぞると、大袈裟なくらいに総悟の体が跳ねた。
 「アンタ、何して」
 「そのまま口開いてろ」
 返事を待たずに総悟の口内を蹂躙しながらアイマスクを取り払う。
 驚いて硬くなっていた体と舌だったが、すぐにふにゃりと力が抜けて、時折「ん」と甘い声が小さく漏れ出した。
 唇を離した頃には、総悟の息はすっかり上がっていて、蕩けている所為でなんの迫力もない赤い瞳が俺を睨んだ。
 「するんですかィ?」
 「ココ何処だと思ってンだよ」
 「縁側。シねぇの?」
 見上げてくる総悟の目がそっと伏せられる。
 それは夢の中、畳に置かれたマヨネーズを見つめていた時によく似ていた。
 「土方さん」
 「そりゃ、お前、こんなトコじゃ」
 「シたくねーってコトですね…」
 俺をぐい、と、押し退けて、総悟は縁側から部屋に入り、そのまま部屋を突っ切って廊下へと出て行ってしまった。

 情けないコトに、漸くおかしいと、気づいた。

 しかし、そこからが思う通りにいかない。
 総悟が見当たらなくなってしまったのだ。
 「総悟見なかったか?」
 広間を覗いている所へ通りかかった近藤さんに尋ねてみたが、首を横に振られる。
 そこへ頼んでおいた書類を持ってきた山崎が現れたので、同じ台詞を繰り返したが、やはり解らないと返された。
 「急ぎの用ですか?」
 「まあな」
 「おやつでも食いに行ってるんじゃねぇか? 電話してみるか!」
 近藤さんが携帯電話を取り出すのを軽く手で押さえる。
 「いや、いいんだ」
 そうして山崎から書類を受け取り、二人をその場に残して自室へと向かった。
 幼子でもあるまいし、総悟の気分に振り回される必要もないだろうと思い直そうと試みるが、何故か気になる。
 夢の中でマヨネーズの件を了承した総悟のガラスの剣の発揮っぷりは凄かった。
 殆ど表情を変えないくせに、たまにあのような貌をするから悪いのだ。
 考えながら、部屋の襖をすらりと引いて、固まった。
 「…お前何してんだ?」
 部屋の中には、総悟がいた。
 探していたくらいなのだから、いることは寧ろ歓迎すべきなのだろうが、何故か部屋の中央にちょこんと正座をして俯いている。
 取り敢えず襖を閉じて、書類を文机に放り投げながら煙草を取り出した。
 その間も総悟はじっと動かない。
 「どうした?」
 俺は今日、コイツに何かしてしまっただろうか。
 夢ではかなりのコトをかましたが、現実の総悟がソレを知るわけがないので、そこは安心だ。
 「アンタが」
 ややして小さな声が聞こえたが、すぐにまた沈黙してしまった。
 「俺が、なんだよ」
 「なんでもねェです。出ていってくだせェ」
 「此処、俺の部屋だよな?」
 俺のツッコミに総悟がもぞりと体を動かす。
 僅かに総悟の後ろに何かが置いてあるのが見えたので確認しようとしたが、白い手が刀を握り締めたため、やめた。
 「ソレ、何?」
 煙草の煙を吐きながら問い掛けると、総悟は酷く居心地が悪そうな様子を見せた。
 「俺が出ていったら見てイイから、だから、一度後ろ向いてくだせェ」
 「意味わかンねぇ。見せてみろって」
 「来んな! なますにされてェんで?」
 がちゃりと鯉口が切られたが、多分、コイツはソレを見られたくなくて立つことはおろか、抜刀もできない。
 構わず近づいてみると、案の定、総悟は刀に手を掛けたまま動くことをしなかった。
 細い肩を通り越して置かれているモノを見る。
 「アンタが…っ。夢見たって、しあわせだったって」
 視界に飛び込んできた物体に目を丸くしている中、総悟が必死に言い募っているのが可愛かった。
 恐らく俺は朝稽古で意識を失った時、何か寝言を漏らしたのだろう。
 「なのに、かけてやっても、シやしょうっつっても駄目だったから」
 見なれた赤いキャップのボトルが畳の上にあって、ご丁寧にビニールシートまで添えてある。
 「マヨと俺と組み合わせりゃイイんじゃねェかと思って…思ったら…思ったけど…」
 ああ。
 もう。
 ホント、馬鹿。
 勢いだけでこういうコトをするから堪らない。
 煙草を灰皿に押しつけて、総悟へと手を伸ばした。
 「ひ、ひじかたさん…俺」
 赤い瞳が迷子のように揺れる。
 思いつきだけで突進してきたものの、いざヤるとなったら許容オーバーしたのだと、すぐに見て取れた。
 「大丈夫だ、シねぇよ」
 体の力を抜いた総悟をそっと引き寄せて、額に軽く口吻ける。
 「今はな」
 「次はありやせん」
 「じゃ、やっぱり今ヤるか」
 抗議のために開いた総悟の唇に噛みついて塞いだ。
 流石におやつ時からおっぱじめる訳にはいかないが、コトに及ぶ時のように深く舌を差し入れた。
 「ん、ん!」
 総悟が俺の背中に両手を回してくる。
 その手が、つうっと文字を書いた。
 なんだろうかと唇を離して、そちらに神経を集中させるがよく解らない。
 「総悟、もう一回」
 応えて背中で指が動く。
 『めいにち』
 そう言えば、と、頭の中でカレンダーを確認した。
 総悟にマヨネーズを盛りつけた夢よりも、背中に書かれた物騒な文字の方が嬉しいなんざ、どうかしているのかもしれない。
 どうかしていても構わない。
 腕の中の体を抱え直して、もう一度口吻けると、総悟が満足そうに喉を鳴らした。

                               2014.5.6

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