夏も終わりを迎えたと言えど、京の残暑はやはり厳しい。 俺は近藤さんの付き添いで、出張に来ていた。 朝、屯所を出る時に、総悟が見送りに来ていたことを思い出す。 アレは正確には近藤さんの見送りであって、俺の見送りではない。 何せ総悟とは昨夜、派手に喧嘩を繰り広げた。 『アンタなんか、もう知らねェ!』 そう言い残して副長室を飛び出して行った総悟が、今朝けろりとしていたのは、偏に近藤さんをいつも通り見送りたかったからだろう。 こめかみを伝う汗を拭っていると、近藤さんが声を掛けてきた。 「明日にゃ江戸に戻れるんだからよォ」 「何のコトだ?」 「総悟と喧嘩したんだろう?」 見抜かれている。 近藤さんは溜息を吐く俺の肩をばしばしと叩いて笑った。 タクシーを拾って、駅前から会食が行われる料亭へ向かう。 お偉方との会食と言っても、どうせ嫌味を食らうだけだと解っている。 碌に料理も食べられないことも理解しているので、予め近藤さんとは帰り道に一杯やろうと話してあった。 そのくらいの発散をしなければ、この会食を乗り切るのは胃に悪い。 案の定、遠回しに芋侍だのならず者集団だのと詰られながら、会食は進んでいった。 「やっぱり疲れたなあ」 「予想通りの展開だったぜ」 「さて。何か食いに行くか」 帰りのタクシーの中で、運転手に美味い飯屋はないかと尋ねて、宿屋の近くの飲食店を紹介してもらう。 上品過ぎず、それでも大衆食堂とは趣が異なるその料理屋は、俺たちの疲れを癒すのにぴったりだった。 丁度個室が空いていたので、其方へ通してもらうことにする。 近藤さんは食前酒を飲み干すと、早速料理に箸を付けた。 食前酒は香りから、林檎を使ったものだと解る。 こういう甘い酒を俺は好まないから、普段なら総悟に渡してしまう。 そんなコトをふと思ったのも、喧嘩をしている所為なのだろう。 綺麗な細工のされた小さなグラスに入った林檎酒を煽った。 食事は京野菜がふんだんに使われており、刺身や蒸し物、名物の鱧の天麩羅、どれを取っても美味い。 ストレスフルな会食を経ていたこともあって、近藤さんと俺の盃も進んだ。 店を出る頃には、二人揃ってほろ酔いで、宿屋までの道すがら風に当たることにする。 「ちゃんと謝るんだぞ、トシ」 「総悟にか?」 「年長者が引くとこは引いてやらねぇと」 「あんたがそんなだから、餓鬼が付け上がるンだよ」 他愛のない話をしていた時。 微かにだが、鯉口を切る音が聞こえた気がした。 咄嗟に近藤さんを道の反対側に押し遣り、此方も勢いよく抜刀する。 「トシ!」 「あんたは動くな!」 すぐに相手とは鍔迫り合いになったが、その間に他に賊がいないかを確認した。 どうやらコイツ一人らしい。 そうなると、事情を聞き出さなければならないので、叩っ斬る訳にもいかない。 他所事に気を取られていた俺が悪かった。 左の二の腕に焼けるような痛みが走る。 体勢を崩した俺の前に立ちはだかったのは、刀を抜いた近藤さんだ。 あっと言う間に渾身の峰打ちで、相手を気絶させた近藤さんが「大丈夫か!?」と俺に駆け寄った。 「ああ、何てことねぇ」 「すぐにこっちの警察に連絡入れるから、手当も其処で頼もう」 近藤さんがてきぱきと連絡してくれたお陰で、事後処理から俺の治療まで、すべて滞りなく済んだ。 幸い、大したことはなかったため、入院を免れることもできた。 但し刀傷のため発熱はするだろうからと、解熱剤と共に痛み止め、化膿止めなどを処方される。 宿屋に戻ってきてから、近藤さんが携帯電話取り出したのを見て、一度制止した。 「なぁ、近藤さん」 「何か欲しいものでもあるか?」 「いや。屯所にすぐに戻れねぇのは、連絡しないと拙いと思うンだが」 この失態を総悟に知られるのは宜しくない。 賊に襲われたまでは、まだいい。 問題は、怪我をしたことだ。 常日頃から「土方さんを殺るのは俺でさァ」と公言している恋人は、俺が他人から怪我を負わされるのを厭う。 「どうした、トシ」 「あ、その…。総悟には黙っとくように上手く言えねぇか?」 ふむ、と顎に手を遣った近藤さんは、次の瞬間には笑い出した。 「山崎に連絡して、総悟にゃ黙っとくように言ってみよう」 恐らく山崎は総悟に、何故俺たちが予定通りの日程で京から戻らないのかと、激しく追及されるだろう。 俺は心の中で、そっと山崎に手を合わせた。 *** 零時を回った頃に、医師に告げられた通り俺は発熱した。 とは言え、普段から刀が体を掠めることが多い職業柄、そこまで高い熱でもない。 江戸に戻るのは二日後くらいに調整すれば、傷の状態も鑑みて、何とかなると思われた。 「じゃあ、俺は隣にいるから。何かあったら呼べよ?」 「大した傷じゃねぇんだ。あんたもゆっくり休んでくれ」 近藤さんが隣室へと引き上げたのを見届けて、深く息を吐き出す。 ――さて、総悟をどうするか。 唯でさえ喧嘩をしているのに、俺が怪我をしたと知ったら、火に油だ。 布団に横になったまま、見慣れぬ天井をぼんやりと見つめる。 「どうすっかな」 うとうとしては目を覚まし、総悟について考え、また眠り込む。 そんな状態が朝まで続いた。 早朝に目を覚ました俺は、不在着信のランプが点いているのに気づき、携帯電話を改める。 発信元は総悟だった。 時間はかなり遅く、俺が寝入ったタイミングだったようだ。 普段であれば、電話に気づかないことなど有り得ない。 だが、生憎熱で朦朧としていて、うっかり逃してしまったらしい。 「最悪だな」 これで総悟は俺に何かあったのだと悟るだろう。 今頃は朝から山崎を締め上げに、部屋に突入しているかもしれない。 山崎が上手く躱してくれることを願うばかりだ。 俺は、そのまま携帯電話を繰って、調べものを始めた。 出張の時は、組の連中に土産と称して菓子を買って帰ることがある。 だから、総悟にはそれとは別に美味い老舗の和菓子でも、と思ったのだ。 躍起になって評判のよい和菓子店を探していると、控えめに部屋の扉がノックされた。 「トシ、起きてるか?」 「ああ」 「具合はどうだ? 包帯、換えなきゃだろ」 「自分でできるさ」 短い遣り取りの後、俺は携帯電話を一度置いて、言われた通りに包帯を取り換える。 この宿屋の朝食は、大広間で指定の時間にということになっていたが、近藤さんが部屋で摂れるようにと、備え付けの電話で仲居に連絡をしてくれた。 「熱はどうだ?」 「殆ど下がってる」 「大事にならずに済んでよかったよ」 やがて部屋に運ばれてきた朝食を二人で食べながら、態とらしくならないように声を掛ける。 「そうだ。近藤さん」 先程まで調べていた土産物のことを提案しようと思ったのだ。 近藤さんは玉子焼きを頬張りながら「何だ?」と言うように俺を見た。 「明日辺りには、もう屯所へ戻れると思うからよ」 「無理はしなくていいんだぞ」 その言葉にひとつ頷いてから、俺は言葉を続ける。 「組の連中に土産を買いに出ないか?」 「しかし、あまり動かねぇ方がいいんじゃないか?」 「心配はいらねぇよ」 マヨネーズを掛けた鯵の開きを突付く俺を見て、近藤さんは「そっか」と声を上げた。 何事かと見遣ると、にやにやと笑う近藤さんと目が合う。 「土産が必要なのは、総悟にだろ」 ブフォ、と噎せる俺を余所に、近藤さんは得心が行ったとばかりにうんうんと頷いた。 「総悟は荒れるだろうからなァ」 「……」 「喧嘩の件も含め、何か用意したくなるのは解るぞ」 当然と言えば当然だが、この人には総悟とのアレコレは一切伏せている。 だが、父親のように総悟と接している近藤さんには、大方の予想をつけることは容易なのだろう。 「解ってンなら、協力してくれ」 そう返すのが精一杯だった。 *** 一騒動あった京への出張から、俺たちは江戸へと戻ってきた。 ターミナルに近い駅に山崎がパトカーを回していてくれたのは助かる。 乗り込むと、やつれ果てた顔の山崎が、力なく歓迎してくれた。 「お帰りなさい…」 「ご苦労だったな」 「あー…その、すまねぇ」 労いの言葉を掛ける近藤さんとは対照的に、俺にはこの山崎の疲れ具合が総悟によるものだと解っていたので、自然と謝罪が口を衝く。 「副長、何とかしてくださいね」 「解ってる」 パトカーが屯所に着くと、亜麻色の髪の毛がひょこひょこと門から覗いているのが見えた。 「お帰りなせェ、近藤さん」 「おう、総悟。ただいま」 総悟は俺を見ることもせず、近藤さんに纏わりつきながら、玄関へ入っていく。 「副長……」 山崎がこの世の終わりのような顔で俺を見た。 「わーってるって、夜までには何とかすっから」 ぶら下げていた紙袋へと視線を落としつつ、遅れて屯所の門をくぐり、玄関へと向かう。 この紙袋の中身を総悟に渡し、喧嘩の件は一先ず謝ろう。 怪我については、山崎が内密にしてくれている筈なので、何とかなる。 そんな風に考えていた。 ところがその総悟は、それきり俺の前に姿を見せない。 夕食時に食堂へ行っても会うことはなかったし、広間を覗いても皆とテレビを見ている様子もなかった。 これは。 「部屋まで来いってか」 相当に臍を曲げているのだろう。 俺は一度着流しに着替え、夜を待ってから総悟の部屋を訪ねることにした。 勿論、件の紙袋を持参して。 襖をノックしても返事はない。 「総悟、入るぞ」 総悟は両耳にイヤフォンを突っ込んでいた。 落語のCDでも聞いているのか、僅かに笑い声のようなものが漏れ聞こえる。 「オイ、総悟」 気配で襖が開いたことも、俺がいることも解るだろうに。 「……糞餓鬼が」 「誰が糞餓鬼でィ」 乱暴にイヤフォンを引っぺがした総悟が、赤い瞳を眇めて此方を振り返る。 このままではまた喧嘩になってしまうと思った俺は、早々に紙袋を総悟へと差し出した。 「ほら、土産」 「……」 「その、なんだ。悪かったな」 反射的に紙袋を受け取ってしまったらしい総悟が、中身へと視線を落とす。 「コレ、何です?」 「御萩。今東軒の、食いたいっつってたろ」 「それで、アンタは何に対して、謝ってンですかィ?」 紙袋から取り出した包みを解きながら、総悟は抑揚なくそう俺に訊いてきた。 「何って、喧嘩したろ?」 ばりばりと包みを破り、木箱の蓋を開けようとしていた総悟の手が止まる。 「総悟?」 「そんなコトは、別にどうでもイイでさ」 「ンだよ。あんなに怒ってた癖に」 「こんなモンで、懐柔なんざされやせんからね」 そう言う割に、総悟は黄粉のついた御萩に早速口を付けていた。 小動物のように口を動かし、ごくんと飲み込んでから、またもぐもぐとやる。 「懐柔って、おめぇ」 言い掛けても、ぎろりと睨まれて言葉が続けられなかった。 嗚呼。 山崎の野郎、隠し切れなかったのか。 此処に来て漸く俺は、何故総悟の怒りゲージがマックスになっているのかを理解した。 怪我の話を山崎から聞き出したのだ。 俺は小さく溜息を吐いて、総悟の傍へと腰を下ろした。 「あんれす?」 「大した傷じゃねぇから」 「……ちっ」 「舌打ちすんな。残念がるか怒るか、どっちかにしろ」 ふたつめの、餡子の御萩を手にした総悟が、俺の左腕を見る。 「ちょいと、こっちに来てくだせェ」 「あァ?」 俺は言われた通りに総悟との距離を詰めて座り直した。 すると、御萩を食べ終えた総悟が餡子でべたべたになった手のまま、着流しの袖を掴んでくる。 「うお。てめぇ! 手ぇ拭いてからにしろ!」 包帯の巻かれた辺りを探り当て、その場所を二、三度軽く撫でた総悟は、むうっと口角を下げた。 そして、ばしんと患部に平手打ちをする。 あまりの痛みに、呼吸が一瞬止まった。 「いってぇぇぇ! 何しやがるこの餓鬼!」 「アンタが悪ィんです」 必死に息を整える俺に向かって、総悟が言葉を重ねる。 「お仕置きでさ」 つん、と横を向いた総悟が、みっつめの御萩を手に取ろうとするのを阻んだ。 「食いすぎだろ」 「食べ盛りなもんで」 「いいから、こっち向け。つか、黄粉と餡子酷ぇな」 総悟の口は食べていた御萩の黄粉と餡子で汚れている。 白い手がそれを拭おうとするのも、また阻止して、唇を合わせた。 「甘ぇ」 「待ってくれりゃ拭いたのに」 文机の上のティッシュを手繰り寄せている総悟の、丸い後ろ頭を見つめる。 今回、怪我を負っても、帰って来られたからよかった。 しかし、喧嘩をしたまま何方かが遠出して、戻って来られないことも充分有り得る。 俺たちの喧嘩はなくなりはしないだろうが、出張や討ち入りの前には、解決しておかなくてはならないと痛感した。 「はい。拭きやした」 「もう一回、ちゃんとしろってか」 丸めたティッシュを畳に放った総悟が、此方に両手を差し出してくる。 その体を受け留めながら、触れるだけの口吻けをすると、総悟がやっと仄かな微笑みを浮かべた。 |