花守

 武州ならではの澄んだ川面に、光が乱反射している。
 漸く温んできたその川で、俺は一人草履を脱ぎ、袴をたくし上げて水遊びをしていた。
 水を蹴り上げると光まで蹴ることができそうで、ムカつくヤツごと吹っ飛ばせそうな気がしてくる。
 俺は何度も何度も繰り返し水を跳ねさせていた。

 『総悟! そこは滑りやすいからな』
 いつか近藤さんが土手の上から言っていた言葉を思い出したのと同時に、俺は川の中でコケてしまった。
 がぼっと喉に水が入り込んでくる。
 浅いと思っていたのに、俺がコケた場所から丁度深くなっていたらしい。
 泳げない訳じゃなかったけれど、もがいても川の流れが速くて水面に顔を出すことができない状態になってしまった。
 (ヤバイ…!)
 息苦しさで、手足が上手く動かない。
 気が遠くなってきた時、誰かが俺の体に触ったような気がした。

 何かが俺の口に当たって離れた。
 次にデカイ声がする。
 「おい! クソガキ!」
 もう一度何かが口に当たった。
 「息しろ! …総悟!!」
 …この声、ムカつく……。
 「げほっ! ごほごほ…ごほっ」
 俺は盛大にむせ返った。
 何故か横にいる土方が俺を引き起こしてトントンと背中を叩く。
 「この…バカっ! テメェ死ぬとこだったんだぞ!」
 物凄い形相で怒鳴られた。
 はっきり言って、ムカつくどころか怖くて堪らない。
 土方如きに怒鳴られて、情けないことに震え出してしまった俺の背中を怒鳴ってるクセに土方がゆっくりと上下に撫でる。
 ちらっと見上げると、土方はびしょ濡れになっていた。
 それで俺を川から引き上げたのは土方だと解った。
 着物は崩れているし、いつも結っている髪の毛もすっかり解けてしまっている。
 (髪…別人みてェ…)
 俺は怒られているのに、土方の長い髪の毛に触ろうとした。
 すると急に土方は俺からさっと距離を取った。
 支えるように添えられていた手も背中から外されて、俺はかくんと後ろに倒れてしまった。
 「…すンません。沖田先輩、触って…」
 「?」
 距離を取った土方は、取って付けたように敬語を使う。
 「けほ。俺が悪いんだろィ…。一人で川に入ったから」
 力が入らなくて起き上がれない俺は、寝転がったまま呟いた。
 視線だけを土方に向けると、無造作に髪を掻き揚げていつものように結い上げようとしていた。
 俺はどうしても、その髪に触りたくなってきた。

 おねーちゃんがいつも言っていることが頭をよぎった。
 『そーちゃん、お礼は必ず、ちゃんと言うものなのよ』
 だるい体を起こして、土方に近寄る。
 「礼、する」
 俺はそれだけ言うと、土方の濡れた髪の毛を引っ張った。
 「何す…るっ」
 土方が俺から髪の毛を取り返そうとする。
 「なんでィ! 俺が触っちゃいけねェのかィ!?」
 ぐいと髪の毛を掴んだまま言うと、土方がびくりと固まった。
 (? 変なヤツ…)
 俺はそう思いながら、触りたかった濡れた髪の毛を指でそっと梳かした。
 「結べばいいンだろィ?」
 「……できるんスか?」
 「ひとつだけできる」
 座っている土方の後ろに立って、俺はひとつだけだけど知っているやり方で土方の髪を結ってみた。
 が。
 「テメェ。なんて結び方してんだ!!」
 出来上がった三つ編みに土方が激怒した。
 「俺、それしかできねェんでィ」
 そう言ってまたパッタリと倒れた俺は暫く青い空を見ていたけれど、段々眠くなってきてしまった。
 隣では土方が、女じゃねぇんだよとか、嫌がらせかとか、寝るなとか色々言っている。
 それも聞こえなくなりそうな時、口にまた何かが当たった。

 どこからか花の香りがする。
 ふと目を開けた俺はまた失態を演じていた。
 ムカつく土方の背中に背負われていたのだ。
 あのまま寝てしまったのかと思いながら、目の前の髪の毛がいつも通りに結い上げられていることに気づく。
 なんだかつまらなくなって引っ張ってやった。
 「…痛っ。起きたんスか?」
 振り向いた横顔が少しだけ笑っている。
 不思議に思ったが、むせ返りそうな花の香りに俺はそっちへ気を取られた。
 探してもどこにも花はない。
 きょろきょろしている俺を見て、土方はまた笑った。

 道場に着いた途端、近藤さんはびしょ濡れの俺たちを見て大方の事情を把握したようだった。
 怒られると思った矢先に近藤さんが笑いながら俺の頭をぽんぽんと叩く。
 「総悟、随分可愛いことになってるじゃないか!」
 にこにこと笑う近藤さんに、俺はぽかんとしてしまった。
 「これじゃまるで女の子だな。トシ、お前がやったのか?」
 近藤さんがしゃがんで俺の顔を覗き込む。
 花の香りがふわりとした。
 「沖田先輩が、俺の髪を結ってくれようとしたンで、お礼に…」
 土方が堪えられないというように、声を漏らして笑っている。
 近藤さんの視線の先にある耳に手をやってみて、俺は花がどこにあるのか漸く知った。

 花は、俺の耳元に飾られていたのだ。

 かあっと頬が熱くなる。
 「ひ、土方ァーッ!!!」
 俺は力いっぱいムカつくその名を叫んで、逃げ出した土方の背中を追いかけた。

                               2011.8.12

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