遠雷

 五月に入り、風が爽やかさを増した気がする。
 ゴールデンウィークの警戒態勢も今日で最後、特にテロの心配もないと思われた。
 そのため、出ずっぱりだった一番隊を引っ込めて、ぶうぶう言いながらも一番働いていた餓鬼に休みを与えた。
 近藤さんをオプションに付けておいたから、多分機嫌は直るだろう。
 俺は俺で急ぎの書類ができてしまって、現場に出ることができなくなったため、陣頭指揮を執っている原田からの緊急の連絡がないことを願うばかりだ。
 そんなことを思いながら、ふと、書類に走らせていた筆を止めた。
 「そういや、アイツ、朝から見掛けねぇな…」
 もう午後をとっくに過ぎているが、昼餉の食堂に総悟はいなかった。
 総悟は非番、俺は内勤。
 こんな絶好のチャンスがあるのに、妙に大人しい。
 近藤さんと一緒に過ごしている所為だろうか?
 ともあれ平和で何より、と、手を伸ばした先にある煙草が空になっていることに気づいた。
 ストックをと文机の引き出しを開けてみるが、切らしてしまっている。
 いつもなら山崎や鉄に頼むところだが、生憎二人とも市中の警備に出ているから、これは仕方ない。
 外まで行く気にはならなかったので、屯所内にある自販機へと足を向ける。
 殆どの人員が街へ出ているため、自販機に辿り着くまで誰とも顔を合わせることはなかった。
 こういう雰囲気は、苦手だと、改めて感じる。
 一匹狼だった俺をこうも変えた此処は大したものだ。
 ほろ苦い思いを噛み締めて、ちゃりんと小銭を自販機に入れた瞬間。
 ドゴォォォン!
 寸での所で躱したが、自販機が火を噴いた。
 ばらばらと零れ落ちたのは煙草ではなく、手榴弾とダイナマイトで、これに引火したら確実に死んでしまうと飛び退る。
 こんなコトをしでかすのは。
 「総悟ォォォ!」
 俺はごく自然に、本能とも呼べる程ナチュラルに、姿の見えない餓鬼の名前を叫んでいた。
 だからと言って総悟が現れる筈がない。
 仕方なく手ぶらで自室に戻ろうとしたものの、これ程のイライラを抱えた状態では仕事に集中できそうになかった。
 気分を変えるために珈琲でも飲んでいこうと食堂へ立ち寄る。
 おやつ時を過ぎた今、働いているおばちゃん達は夕餉の仕込み前の休憩に入っていた。
 閑散としている厨房の中、薬缶を火に掛け、暫し待つ。
 湯が沸くまでの間、総悟の悪戯について考えてみたが、内容的にはいつもと大差ない。
 ただ、屯所にいる隊士の人数がこんなにも少ないというのに、この規模のものを仕掛けるコトは珍しいような気がした。
 と、視界の隅、天井の辺りでぎらりと何かが光った。
 ズザァァァ!
 雨のように降ってきたのは包丁で、すべてを避けきった己を心から褒めた。
 しかし、もう珈琲どころではない。
 「総悟ォォォ!」
 俺は餓鬼をとっ捕まえるべく、恐らく隠れているだろう近藤さんの部屋へと廊下を走り出した。
 その部屋の襖を素早くノックし「入れ」の「は」を聞いた段階でスパーンと開け放ち、呆気に取られている近藤さんの前後左右を確かめるが、総悟はいなかった。
 「どしたの、トシ、血相変えて…」
 「総悟が何処行ったか知ってるか?」
 「さっきまで其処で煎餅食べて、ゲームしてたんだ」
 近藤さんが総悟が座っていたらしい場所を指差しながら、穏やかな顔で語り始める。
 「だが、眠くなったみたいでな」
 続きを視線で促すと、まったくもって親のような表情を浮かべて――トドメを刺した。
 「お前の部屋で昼寝するって」
 「なんで俺の部屋なんだよ…ったく!」
 「まあまあ、疲れてんだろうし」
 「疲れてるヤツが自販機爆発させたり包丁降らせたりするか!?」
 邪魔したな、と部屋を出る俺に、近藤さんが程々にするようにと声を掛けてきたが、生温く済ませる心算は毛頭なかった。
 一度、きっちりはっきり説教でも折檻でもしないと、あの餓鬼は解らないのだ。

 ドスドスと廊下に足音を響かせてしまっているのは仕方ないと思う。
 どうせ自分の部屋だからと、遠慮することなく襖を引いた。
 が。
 次の瞬間、俺は完全に固まった。
 目の前には見知らぬ女が一人、真朱色の振り袖姿で、楚々と三つ指をついて頭を下げている。
 「何者だ…どっから入った?」
 女は無言のまま、さらさらと流れる長い黒髪をかき上げることもせずに、俺に煙草を一箱差し出した。
 「いや、貰う訳にはいかねぇ」
 何処の誰かも知らない人物から、煙草なんぞを安易に受け取り、毒物でも仕掛けられていたらと思って断る。
 だが、そこで煙草を持つ白い指先が、総悟のものだと気づいた。
 何をトチ狂った格好をしてやがる!
 怒鳴りつけようとしたが、やめた。
 コレは懲らしめる良い機会ではないだろうか?
 「オイ、女」
 自分で思っていたよりも、遥かに冷たい声が出てしまい、総悟がびくりと体を揺らしたのが少し可哀想だった。
 「男所帯に忍び込んで、無事に帰れると思ってンのか?」
 態とそんなコトを言いつつ、俯いたままの総悟の両手首を強い力で引き寄せる。
 そうして、敢えて顔を上げさせず、耳元をちゅっと吸った。
 「――ッ」
 総悟は軽い悪戯の心算で、こんな事態になるとは予想していなかった筈だ。
 案の定、体を強張らせてふるふると首を横に振る。
 その姿は、まるで本当に、女が嫌がっているかのように見えた。
 「楽しませろよ、なぁ?」
 耳に口をくっつけた状態で、きっちりと合わされていた着物の衿をぐいと乱して、帯を解きにかかる。
 「――…ッ!」
 声を出したらバレると思っているのか、総悟の息遣いだけが戸惑いを伝えてきた。
 急展開にテンパっているのがよく解って、笑いそうになるのを必死に堪えながら、俺の手を退けようとする総悟の手を押さえ込む。
 「オイオイ、その心算で来たんじゃねぇのか?」
 「……」
 意地悪く詰め寄ると、とうとう総悟は身動ぎひとつしなくなってしまった。
 こういう所が可愛い。
 だが。
 正直に言うと、まったくソノ気にはなれなかった。
 俺にとっては別に総悟が女である必要はないのだから。
 ただ、自販機が火を噴いたことや、包丁の雨が降ってきたことには本当にうんざりしていた。
 だから、こうして少し虐めてやれば、コイツもイイ加減、色々解るんじゃないだろうかと思って、下を向いたままの頬に指を滑らせ――…。
 「ちょ、お前何泣いてンだよ!?」
 よくよく見れば、肩が小刻みに震えていて、総悟はひくっと小さな嗚咽を漏らしていた。
 「総悟、オイ!」
 「巫山戯んな! この…っ、下半身アバウト野郎!」
 言葉と共にばしんと顔を叩かれる。
 「いってぇ!」
 「…あり? 今、俺の名前呼びやした? 気づいてたンですかィ?」
 赤い瞳に涙をいっぱいに溜めた総悟がかくんと首を傾けた。
 弾みでぽろっと涙が零れたのを、指で拭いてやる。
 「気づいてなけりゃ、ただの強姦魔じゃねぇか!」
 「あららー、アンタにこーんな趣味があったなんざ、俺ァ萎え萎えでさァ」
 ちょいちょいと長い袖を持ち上げる総悟には、もう溜息しか出てこない。
 「馬鹿かてめぇは。俺が萎え萎えだっつーの」
 言った途端、今度は逆側に総悟の頭が傾ぐ。
 「なんで? 普通、ノリノリじゃねェんですかィ?」
 再び、ぽろりと落ちた涙をぐいぐいと拭ってやりながら、ご丁寧に紅を差してある唇を見つめた。
 「…風呂入って着替えてこい。馬鹿なコトすんな」
 「俺、馬鹿なんですかィ?」
 「馬鹿以外の何だと思ってンだ?」
 畳の上に転がっていた煙草を拾い、封を切って取り出して銜え、火を点ける。
 そんな俺を不思議そうに見ていた総悟だったが、俺が相手をしないと解ったのか、暫くすると静かに部屋から出て行った。
 ふうっと煙を吐き出す。
 綺麗だとは思った。
 だけど、アレが欲しい訳じゃない。

 考えていても仕方ないことかと思い直し、放置していたままの書類を捌くことにした。
 だが、何故、あのような真似を総悟がしたのか解らない、と、また思考が戻ってくる。
 自販機と包丁は、まあ、いい。
 いや、よくないが、この際よしとしよう。
 ああして自販機がある場所から、厨房へ、其処から近藤さんの部屋、そして俺の部屋へと誘導したかったのは解る。
 但し、その最後の女装が釈然としない。
 一行書いては筆を置き、筆を置いては煙草を吸って、そんなことを繰り返していたら、湯から出た総悟が単姿で部屋に入ってきた。
 何処をどう拭いたのか、ぽたぽたと滴を滴らせている亜麻色の髪をなんとかしてやろうと手招きして、後ろを向かせて胡坐をかいた上に座らせる。
 「ちゃんと化粧、落としたか?」
 「落としやしたよ」
 心なしか拗ねているような声がするので、どんな顔をしているのかと、顎を掴んで此方を向かせて後悔した。
 すっかり化粧は落ちているものの、湯上り特有のほんのり上気した肌が、堪らなく艶めかしい。
 「土方さん?」
 そう俺を呼ぶ唇は、紅を差していた時よりも愛らしく見えて、自分の重症度を理解した時には、諸々遅かった。
 総悟の瞳がすうっと眇められる。
 「なんか、硬いのが当たってるンですけど」
 「いや、コレは、その、なんだ」
 「なんなんです?」
 じとっとした視線を向けられても、密着している体から伝わってくる熱と石鹸の香りに、くらくらすることに変わりはない。
 膝の上にのせたままの姿勢で、両手を総悟の前に回し、片方を胸元へ、もう片方を裾へと割り込ませた。
 「へんたい」
 温度のない声が俺の動きを封じる。
 首筋に埋めていた顔を上げると、やはり何処か怒っている様子の総悟が、俺の両手を抓った。
 「へんたい」
 「煩ぇな。何が気に入らないンだよ」
 「――…せっかく、俺が」
 ぎりぎりと抓ってくる手を振り払って尋ねれば、ぽつりと言葉が漏らされる。
 「何だよ?」
 「……」
 続きを促しても、それからは黙り込んでしまったので、再び悪戯を仕掛けようとしたのだが、べしんと叩かれた。
 「ンだよ、何なんだよ」
 「俺が、恥を忍んで、あんな…あんなのを着たのに」
 「は?」
 「さっきは手ェ出さないで、今サカるって、どういう了見でィ!」
 ああ。
 そうか。
 コイツ、女装してるのを、ちゃんと襲われたかったのか。
 ……。
 「なんで? そんな趣味あったのか?」
 思わず訊いてしまった俺も相当馬鹿だった。
 俺の言葉に総悟が物凄い形相で振り返る。
 「アンタ、誕生日でしょう!? だから! 俺ァ、あんな…あんな…」
 ああ。
 そうか。
 コイツ、女装してたら、俺が嬉しがると思っていたのか。
 ……。
 「お前、馬鹿だろ?」
 「な…っ」
 きっとごちゃごちゃ煩い抗議をするだろう、と、開きかけている総悟の唇を食む。
 「んぐ! ふ…うっ」
 『んぐ』はないだろうと思ったが、それもコイツらしいので、そのまま続けた。
 ややすると、総悟の体がくたんと力を失って、此方に体重を預ける形になったので唇を解放してやる。
 「あのな、総悟」
 「へんたい」
 「別にお前が女になる必要はねぇンだよ」
 「へんたい」
 「変態でイイから聞けよ」
 亜麻色の頭をぐしゃぐしゃ掻き混ぜると、それがどんどん下がっていってしまう。
 「へんたい」
 白い手が俺の隊服の襟元をぎゅっと握り締めるから、これは照れているだけだとほくそ笑む。
 「その変態と、ヤりたくねぇの?」
 「…死ねよ、今すぐ死ね土方……クソ」
 言いながら総悟が、俺のジャケットを脱がし始めたのが、とても、とても愛しかった。

                               2015.5.2

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